数学と論理は旧い仲。密接に関係しており、やはり切っても切れない仲でしょう。
が、一見似た者同士に見える数学と論理学でも、実は立ち位置ははっきりわかれているのです。今回は数学と論理学のカラーの違いについて書いてみましょう。
論理学。論理学は主張に意味を求めません。ただ形式的な正しさを追い求めます。それに比べ、数学では意味を解釈することが重要になります。数学的意味合いのない対象は正しいとしても数学的価値はありません。逆にいくら数学的価値のある命題も論理学から見ればトートロジー(恒真式)です。
どちらも同じような対象を扱っておきながら、重きをおいている部分が全然違いますね。数学と論理学の大きな差異です。
桶屋の論理を見てみましょう。各「風が吹く⇒砂が舞い上がる」などの条件が真の時、「風が吹く⇒桶屋が儲かる」は真になる、と主張する、なるほどそれが論理学です。しかし、これは別に桶屋が儲かってよかったね、という話ではありません。風が吹いているのに、桶屋が儲かっていないならこれをつなぐどこかの条件が偽である、これを主張するのも論理学です。論理学は桶屋が儲かるかどうかはどうでもよく、三段論法がトートロジーであることを重要視します。
これに対して、もしこれを数学が扱うならば、定められた公理と定義の中から、(論理を使って)風が吹いて桶屋が儲かるのか、儲からないのか、それとも風と桶屋は無関係なのか、を証明します。結果、その公理の上での風速と桶屋の財布の関係が明らかになります。したがって、それによって桶屋を羨むもの、興味をなくす者などが現れてもおかしなことではありません。特に酔狂な人はその証明過程や理論が美しいかどうかを議論します。
どうでしょう、この雰囲気。おわかりいただけたでしょうか。あまりにも貧弱な例ではありましたが…。こういった感じの違いがあるのです。
本当は“論理学と数学”なんていっちゃうと、「数学の中で論理がどんな役割を果たしていくのか」、「数学と論理はどう関わっているのか」みたいな話をするべきところなんですが、そのへんを説明するのは非常に難しい、というか僕自身あまりわかっていない、ので今回はこのへんでお茶を濁します。
さてさて。数学と論理についてもう一つ。
「数学は論理的思考を養う科目である」とは教育に携わる方はよくおっしゃるようです。
なるほど。僕が見てきた中で、数学をやる人間が最低限の論理的思考力を身につけているのは事実です。De Morganの法則を理解できない人は、必ず途中で詰みます。
しかし、はっきりいって高校数学まで「論理的思考を養う」ような論理を重んじた数学の教育が為されることはまずありません。もしやってたら三角函数を微分できるのに対偶がわからない学生が大量生産されるわけないでしょうから。
ですから、この「数学は論理的思考を養う科目」というのはちょっと違う気がするのですね。論理的思考ができる人間が数学をやるのです。論理的思考を養うには論理パズルを解くのが一番よいと思います。
それで、この手のパズルが得意か苦手かは、文系理系が関係ないようであるのがまた面白いところです。
2008/12/23
連続
“連続”という言葉があります。函数、写像を相手に定義される概念で、理系の高校生が三年で習う内容です。実数函数fが定義域の内部の点xで連続である、とは「fのxにおける左極限と右極限がf(x)に一致する」で、fが連続函数である、とは「fが定義域上の点で連続である」だったと覚えています(定義域に境界が含まれるなどの細かい場合はどうしてたか忘れました)。一般に位相空間から位相空間への写像fが一点xで連続であることをnetの言葉で表記すると「xに収束する任意のnetの像がf(x)に収束する」になり、実数の位相の性質を考えると確かにこれらの概念は一致しています。
この時確かにグラフがつながってみえるので、「連続函数とは連続な像を持つ函数である」というイメージを持ちがちです。
しかし、それは違います。先ほど「連続な像」と書きましたが像とは集合です。連続は写像に対して定義される言葉で、「集合が連続である」と言葉は定義されていません。
集合(位相空間)にはつながるという考え方に対応した概念として「連結」という性質が定義されています。例えば実数は通常の位相で連結ですが、有理数は連結にはなりません。有理数全体は無理数のところ、例えば√2のところで切れています。切れるというのは二つ以上の開集合に分割できるということです。これに対して逆に実数は「どこでぶったぎってもどちらか一方が開集合でないようなもの」と定めるのがDedekindの実数論であり、これはDedekindの切断と呼ばれ、実数の連続性の公理として最もポピュラーな位置にいます。「実数の連続性」という言葉は集合に“連続”という言葉が使われるかなりイレギュラーな例だと思うのですが、実際はこのように“連結性”を示すものであったともいえます(ちなみに実数の公理は連結性に着目したものだけではなく、他にも一様位相の完備化から責めるCantorの実数論もあります。Cauchy列の収束を述べるものです)。
実は連続函数というのは、「つながっている」という概念とはかけはなれています。上の「fのxにおける左極限と右極限がf(x)に一致する」という言葉は絵を思い浮かべると確かに「つながっている」という感じがするのですが、それは実数がそもそも連結な空間だからであって、連結でない空間上の連続函数であれば、その一般にその像は連結ではありません。
連続性の定義を素直に読み取れば、連続な写像とは「こっちでxに収束している列はあっちでもf(x)に収束している」という“収束先を保存する写像”となります。また収束という概念は位相構造を定めるものであるので、“位相構造を保存する写像”であるのです。
とはいうものの、連結性と連続性はまったく関係のないものではなく、「連続写像は連結な集合をまた連結な集合に写す」という性質があります。よって実数上の区間上の連続函数なんかを相手にする場合は像が連結であるみたいな考え方が生きてくるし、歴史的にもこのような流れがあって、連続函数と名付けられたのでしょう。位相空間の定義が生まれ、連結でない位相空間を相手にしだしてから“連続”という言葉が浮いてきたのではないかなぁ、と考えます。
数学の用語には、このように、歴史的な事情や概念の一般化によって、日常の意味とかけはなれた意味で使われるようになった言葉があります。この連続もその一つです。
この時確かにグラフがつながってみえるので、「連続函数とは連続な像を持つ函数である」というイメージを持ちがちです。
しかし、それは違います。先ほど「連続な像」と書きましたが像とは集合です。連続は写像に対して定義される言葉で、「集合が連続である」と言葉は定義されていません。
集合(位相空間)にはつながるという考え方に対応した概念として「連結」という性質が定義されています。例えば実数は通常の位相で連結ですが、有理数は連結にはなりません。有理数全体は無理数のところ、例えば√2のところで切れています。切れるというのは二つ以上の開集合に分割できるということです。これに対して逆に実数は「どこでぶったぎってもどちらか一方が開集合でないようなもの」と定めるのがDedekindの実数論であり、これはDedekindの切断と呼ばれ、実数の連続性の公理として最もポピュラーな位置にいます。「実数の連続性」という言葉は集合に“連続”という言葉が使われるかなりイレギュラーな例だと思うのですが、実際はこのように“連結性”を示すものであったともいえます(ちなみに実数の公理は連結性に着目したものだけではなく、他にも一様位相の完備化から責めるCantorの実数論もあります。Cauchy列の収束を述べるものです)。
実は連続函数というのは、「つながっている」という概念とはかけはなれています。上の「fのxにおける左極限と右極限がf(x)に一致する」という言葉は絵を思い浮かべると確かに「つながっている」という感じがするのですが、それは実数がそもそも連結な空間だからであって、連結でない空間上の連続函数であれば、その一般にその像は連結ではありません。
連続性の定義を素直に読み取れば、連続な写像とは「こっちでxに収束している列はあっちでもf(x)に収束している」という“収束先を保存する写像”となります。また収束という概念は位相構造を定めるものであるので、“位相構造を保存する写像”であるのです。
とはいうものの、連結性と連続性はまったく関係のないものではなく、「連続写像は連結な集合をまた連結な集合に写す」という性質があります。よって実数上の区間上の連続函数なんかを相手にする場合は像が連結であるみたいな考え方が生きてくるし、歴史的にもこのような流れがあって、連続函数と名付けられたのでしょう。位相空間の定義が生まれ、連結でない位相空間を相手にしだしてから“連続”という言葉が浮いてきたのではないかなぁ、と考えます。
数学の用語には、このように、歴史的な事情や概念の一般化によって、日常の意味とかけはなれた意味で使われるようになった言葉があります。この連続もその一つです。
2008/11/23
演算と文章題
僕は算数にも携わる機会があったりして、たまに小学生相手にあれこれ教えたりしています。高学年相手であれば教えやすくなるのですが、初等的になればなるほど教えることは困難になっていきます。特に数の概念、四則演算を教えるのは難しい。というか演算に関しては「教える」という概念はほとんど破綻しているとも言えるのではないか、と思います。今日はこのへんについて語りたいと思います。
「小学生には計算の意味を教えなければ教育は云々」などと語る大人はとても多いです。特に算数教育の最終到達点は文章題が解けることである、という考え方を持つ親は多く、子供はとても他に応用できないような鶴亀云々等を学習塾などで教えこまれ、中学入試に対応していきます。もちろん鶴亀算の教育が必要ないとはいいません。が、この着眼点は完全にずれています。
はっきりいいましょう。計算に意味なぞありません。演算とは「二つからなる数の組から一つの数への写像」として与えられます。つまり数から二つ取り出して、それに写像を作用させると一つの数が返ってくるといったもので、例えば「足し算」ならば2と3という数を与えると5が返ってくる、「掛け算」なら6が返ってくるとそういう話です。
写像というのは任意に定義することが可能なものです。そして上に述べた通り演算とは写像です(普通いくらか条件は付きますが)。たまたま「足し算」の場合は2と3を与えれば5が返ってきて、「掛け算」ならば6が返ってきただけの話なのです。これは定義です。定義に意味を求めるのはよくない。定義の意味というのは舞台裏としてこっそり存在することはあっても、表舞台に出て多くを語ってはならないのです。
計算の意味が云々、という人には是非問いたい。1+1=2を証明せよ、と。これを証明できないならば計算の意味なんて全部嘘です。ちなみにこれ、証明できません。1+1=0となる体系があるからです(扱っている体系が違うのでひっかけのようですが1+1=2を定義するというのはこれくらいプリミティブな話なのです)。
1+1といえばおはじきか何かを使って量から示すというのが初等教育のセオリーです。しかし、異なるねんどの塊を二つ持ってきて、くっつけて1+1=1だということもできるのです。それは屁理屈だ、それとこれとは話が違う…という。何故か?それは教育者は1+1=2となるような状況だけをうまくピックアップして他は目を瞑ってでも1+1=2と思いこませたいからなのです。それは当たり前のことです。何故なら紛れもなく1+1=2なのですから。
ここは前にも述べた現実と綺麗事のギャップに起因します。ねんどの例のように現実には1+1=2とは限らない。しかし、綺麗事では1+1=2である、という命題を正しいとしているわけです。このラベルは絶対に剥がれません。これが定義なのです。
では僕は算数では何が重要と考えているか。
まずは計算ができることです。その計算も意味を考えながらやってはダメです。計算とは写像、つまりは定義されたものなんですから。計算とは覚えるものなのです。これが冒頭に書いた『演算に関しては「教える」という概念はほとんど破綻しているとも言えるのではないか』の真意です。ほら、九九なんて単にごろ合わせでしょう。他の演算も同じように、なんでもいいから体で覚えることが重要なのです。
しかし確かにこれだけでは文章題は解けません。そこで次に重要になるのは文章を読む能力でしょうが、そこは国語教育に任せてしまいましょう。
算数で次に重要になる考え方は、既に今までの中に出てきています。それが
「…教育者は1+1=2となるような状況だけをうまくピックアップして他は目を瞑ってでも1+1=2と思いこませたい…」
というところ。そう、1+1=2となるような状況をうまくピックアップできるセンスを磨くことです。現実世界をモデル化、理想化することで綺麗事の世界に持ち込めるようになる、このセンスが重要なのです。これが文章題の真髄です。一通り教育を受けた大人側からだと理科っぽく見えると思うのですが、僕はむしろこれが算数らしさであって、理科の方が算数っぽいな、と思っています。
算数、特に四則演算と文章題については基本的には上に述べた通りです。もっと高学年になって習う難しめの文章題はパズルなのであって、躍起になってセオリーを習って解くべきものではありません。身につけるべきは思考のためのセンスであって、知識ではないのです。解くだけなら方程式を立てればどうにでもなるし、そのほうがよっぽど楽なのですから。
実は算数は、同じ問題を解くならば数学よりも高度なセンスや思考力を要求します。鶴亀云々は古来より伝わる有名なパズル問題の考え方であって、そのセオリーを身につけるものではなく、数的センスを磨くためのものなのです。ここを履き違えて「鶴亀こそが計算、ひいては算数の意味なのである」みたいなとんちんかんなことを言うのはちょっとなぁ、と普段から思っているのですが、なかなか発言の機会もなく、こういうところでポツンと呟くのです。
今日は代数学について書くつもりで始めたのに、結局話題が算数よりになってしまいました。代数学についてはまた今度。
2008/11/20
blog、難しいですね
blogger難しいです。カスタマイズの自由度が高そうだったのと、Google提供だからという理由で借りたんですが、これがなかなかうまくいかないです。
せっかくだからこの自由度をもっと活かしていきたいのですが、今の僕にはこのへんが限界です。というかChromeでちゃんとblog設定できないってどうなんすかGoogle先生。
blogそのものもやっぱり難しいですね。一応レイアウトは「できるだけシンプルに」を心がけていますが、どうでしょう。blogってどうしてもごちゃごちゃしがちですものね。
それより本文です。なかなか読みやすい形にできません。文字色やフォントをいじったらましになるのだろうか、などと思えど、果たして僕のセンスで見栄えよく出来るかどうか…。
そしてこれが最も厄介なんですが、文章を書くことが難しい。ぱっと明快な文って書けないですね。投稿してからも「あれはこうしたほうが…いやここはこうで…」なんて編集していくうちに記事がグチャグチャになってしまいます。
ただでさえ頭がうねうねしそうなことを書いているのに、文章まで読みにくかったらどうしようもないですよね。
…これってもしかしてblogに向いてないんじゃないかとも思うのですが、もうちょっとがんばってみます。そのうち習熟するに違いない、と信じて。
せっかくだからこの自由度をもっと活かしていきたいのですが、今の僕にはこのへんが限界です。というかChromeでちゃんとblog設定できないってどうなんすかGoogle先生。
blogそのものもやっぱり難しいですね。一応レイアウトは「できるだけシンプルに」を心がけていますが、どうでしょう。blogってどうしてもごちゃごちゃしがちですものね。
それより本文です。なかなか読みやすい形にできません。文字色やフォントをいじったらましになるのだろうか、などと思えど、果たして僕のセンスで見栄えよく出来るかどうか…。
そしてこれが最も厄介なんですが、文章を書くことが難しい。ぱっと明快な文って書けないですね。投稿してからも「あれはこうしたほうが…いやここはこうで…」なんて編集していくうちに記事がグチャグチャになってしまいます。
ただでさえ頭がうねうねしそうなことを書いているのに、文章まで読みにくかったらどうしようもないですよね。
…これってもしかしてblogに向いてないんじゃないかとも思うのですが、もうちょっとがんばってみます。そのうち習熟するに違いない、と信じて。
2008/11/19
数学とは何か
「数学とは何か」という問いには簡単に答えることはできません。まぁそれはどんな言葉に対してもそうですね。「○○とは何か」という問いに答えるには、その言葉が指す対象すべてを貫く性質、本質を見極めることが必要で、さらにその本質を持つのは言葉が指す対象のみであるという事実も重要となります。
まして数学は成立が旧く、時代時代によって捉えられ方もかわっていたようなので、その本質はこれだ!とはいかないようです。それで実際に関わっていく上では、こういうところで多くを語らないのが大人だというわけです。
で、僕は敢えてそれを語ろうとしている、この辺の事情に一応僕が設定したこのブログのテーマというか、僕がやろうとしていることがあらわれいるわけです、はい。
一応僕も数学を勉強している学生ですから、今現在この学問がどのように捉えられているかなんとなく空気を読むことはできます。僕が読んだ空気の感じでは
「数学とはある性質を持つ集合とその上の写像を論理的に扱う学問である」
っぽい流れを感じています。現在では圏論という分野があって、集合や写像の事情ももうちょっと一般化されているらしく、こういう風に書くとちょっと流行遅れ的なにおいもするのですが、圏論、特に基礎論まわりは勉強不足な僕ですので、深く語らないことにします。
集合は高校一年、写像は理系の学生が高校三年生で習う(少なくとも僕の時はそんな課程でした)言葉だと思うので、少し解説が必要でしょう。集合とは(ごくごく素朴にいけば)その名の通り、何かが集まってできた「モノ」のことです。そして、ただ「モノ」があるだけでは、何の動きもなく、面白くない世界であろうな、というわけで、集合に「動き」のようなものを与えてやろう、と。その「動き」が写像です。
…非常に荒々しい説明ですが、この辺りは追々新しい記事で詳しく書いていこうと思っています。
まとめましょう。「数学とは思考上で『モノ』とその『動き』を捉えて研究しよう、という学問である」。非常に漠然として抽象的で捉えようのない感じですが、だからこそ色々なものを研究対象にすることができ、よって他の学問にも数学そのもの、また数学的な考え方が応用されるケースも多いというわけです。
ここまで来て、「なんだ自分の知っている数学とは全然感じが違うぜ」という方も多いでしょう。なぜなら常識(義務教育)では数学とは普通「数や図形」、また「関数」を扱うものであるからですね。
しかし、これも紛れもなく上で述べたような数学であるということがわかります。なぜなら「数や図形」とはまた集合の一種であり、「関数」は写像の一種だからです。
実は、数学はそもそも「数や図形」、「関数」を扱うものでしたが、現在の数学はさらにこれを一般化することで、集合と写像の学問になった、というわけなのでした。「いわゆる数学」と僕がいう「現代の数学」の関係もこれで明らかになったでしょうか。
さて、「いわゆる数学」が「数」と「関数」を扱うものであったように、どんな「モノ」で、どんな「動き」を研究するのか、を設定することで現代の数学も一応大きく三つのジャンルに分類されます。その三つが「代数学」、「幾何学」、「解析学」です。これについてはまた次の機会に。
まして数学は成立が旧く、時代時代によって捉えられ方もかわっていたようなので、その本質はこれだ!とはいかないようです。それで実際に関わっていく上では、こういうところで多くを語らないのが大人だというわけです。
で、僕は敢えてそれを語ろうとしている、この辺の事情に一応僕が設定したこのブログのテーマというか、僕がやろうとしていることがあらわれいるわけです、はい。
一応僕も数学を勉強している学生ですから、今現在この学問がどのように捉えられているかなんとなく空気を読むことはできます。僕が読んだ空気の感じでは
「数学とはある性質を持つ集合とその上の写像を論理的に扱う学問である」
っぽい流れを感じています。現在では圏論という分野があって、集合や写像の事情ももうちょっと一般化されているらしく、こういう風に書くとちょっと流行遅れ的なにおいもするのですが、圏論、特に基礎論まわりは勉強不足な僕ですので、深く語らないことにします。
集合は高校一年、写像は理系の学生が高校三年生で習う(少なくとも僕の時はそんな課程でした)言葉だと思うので、少し解説が必要でしょう。集合とは(ごくごく素朴にいけば)その名の通り、何かが集まってできた「モノ」のことです。そして、ただ「モノ」があるだけでは、何の動きもなく、面白くない世界であろうな、というわけで、集合に「動き」のようなものを与えてやろう、と。その「動き」が写像です。
…非常に荒々しい説明ですが、この辺りは追々新しい記事で詳しく書いていこうと思っています。
まとめましょう。「数学とは思考上で『モノ』とその『動き』を捉えて研究しよう、という学問である」。非常に漠然として抽象的で捉えようのない感じですが、だからこそ色々なものを研究対象にすることができ、よって他の学問にも数学そのもの、また数学的な考え方が応用されるケースも多いというわけです。
ここまで来て、「なんだ自分の知っている数学とは全然感じが違うぜ」という方も多いでしょう。なぜなら常識(義務教育)では数学とは普通「数や図形」、また「関数」を扱うものであるからですね。
しかし、これも紛れもなく上で述べたような数学であるということがわかります。なぜなら「数や図形」とはまた集合の一種であり、「関数」は写像の一種だからです。
実は、数学はそもそも「数や図形」、「関数」を扱うものでしたが、現在の数学はさらにこれを一般化することで、集合と写像の学問になった、というわけなのでした。「いわゆる数学」と僕がいう「現代の数学」の関係もこれで明らかになったでしょうか。
さて、「いわゆる数学」が「数」と「関数」を扱うものであったように、どんな「モノ」で、どんな「動き」を研究するのか、を設定することで現代の数学も一応大きく三つのジャンルに分類されます。その三つが「代数学」、「幾何学」、「解析学」です。これについてはまた次の機会に。
数学は美しい?
まだブログの方向性や読者層も定まっていないうちから、いきなりディープな話を書くのはあまりよくないと思うので、しばらくはふんわり自分が数学というものに対してどんな考えをもっているのか、を書こうと思います。
今回のテーマは「数学は美しい?」。
「数学は美しい」と最近巷でもよく聞くようになりました。静かに数学ブームがきているようです。いいじゃないですか。
では人は何故数学を美しいと感じるのか。また数学好きは何故数学が好きなのか。僕もここで綺麗なものの一つとして数学を挙げているわけですから、このへんの前提をはっきりさせないと話も始りません。
数学はそもそも綺麗事を扱う学問です。理想的な状況を仮想し、その上にある命題達に正しい、正しくないというラベルを貼っていく。そしてそのラベルは決して剥がれることはない。
例えば現実世界であれば、ポケットにビスケットをいれて叩くと、一つが二つに、はたまた三つに、粉々に、そもそもポケットに穴があいていてビスケットと呼べるものは微塵もなくなってしまったり、謎のトランスフォームが起こっておにぎりに変わってしまったりしますが、数学では例えば「形が変化しないビスケット」を「中に入れたものはすべてそのまま保存するポケット」に入れた場合、「叩いてもビスケットの個数は変化しない」という絶対に覆らない事実を導くのです。
現実で様々なリスク管理をしているにも関わらず、ポケットの中のビスケットを割って二枚ないし粉々にしてしまいがちなこのカオスな世の中で、このすっきりとした真理が一点の曇りもなくそこに燦然と輝く様は、やっぱり美しいと感じざるを得ない。ですよね。
ビスケットを割ってしまうような我々人間は「そんな理論は何の役にも立たない。だってビスケットは割れるんだから」と言いますが、そんなことはお構いなしなところも孤高の存在のようでかっこいいじゃないですか。ちなみに「形が変化しないビスケット」を食べるのはかなり危険な行為だと言えるでしょう。
上にはさらっと、「ラベルは決して剥がれることはない」と書きましたが、ここには数学の論理的整合性が作用しています。実のところ現在の数学が矛盾を含むかどうかは証明できないというところで話がついているようですが、一応建前上数学は矛盾を含まない、ということになっているのです。これは数学特有の性質で、数学の数学たる所以であるともいえるでしょう。正しく証明された事実は絶対に否定されることがありません。僕自身これはパワーであると考えています。やっぱり強いものには憧れますもの、僕が数学を好きになった一因です。
などなど、書きやすいところから書きましたが、数学の最も本質的な美しさは、このように言葉であらわすことができるものではなく、神の悪戯としか思いようのないような美しい事実の数々。これに尽きると思います。「まさかそんなにうまく行くわけないやろー」と思うことがことごとく起こっていくのが数学のすごいところなのですよ。これは実際にかじってみないと実感できず、わかる人にしかわからないというのが残念です。
さて、ここまで読んでお気づきでしょうか。これらの発想が実に中二病的であるということに。そうなのです。数学の美しさとは中二病的な感性が引き起こすもので、いい年こいた大人が追いかけるようなものではないのです。SFに出てくる科学っぽい用語に心が躍る、すげー強くなりたい、もしくはすげー強いものにあやかりたい、現実?そんなの興味ないしとか言ったりしてクールな感じでありたい、そして俺がナンバー1だ!みたいな。そういう童心をくすぐるのが数学で、さらにそれをそのまま持ち続ける人が数学を追いかけるのです!
…というのはもちろん言い過ぎですが、あながち的は外していないように思うのですよ。どうですかね。高校の頃Galoisの生涯や業績を知っておっかけやってるミーハーがそのまま数学科に入るのはよくある話です。僕じゃないですよ。
Galoisだけじゃありません。そういう数学少年を刺激する言葉はいっぱいあります。Fermatの最終定理、謎の秘密結社ブルバキ、ゼータ函数、素数、不完全性定理、パラドックス、Q.E.D…。え?僕じゃないですよ。
そもそも「美しい」なんていう言葉が大仰で、それこそ中二病ぽいじゃないですか。僕は気恥ずかしくて「数学は美しい」なんてなかなか言えないです。
それで僕は、数学が繰り広げる絶景を眺めながら「綺麗やなぁ…」と呟く、そういうわけです。
逆に重症と言えます。
2008/11/18
ご挨拶
どうも、ちこのふです。音楽と数学が好きな学生です。
綺麗なものが好きで、そういったものばかりを追いかけた結果、生まれた世捨てごくつぶしが僕です。そんな極道な僕が見上げる夜空にも、ちゃんと月があって僕を照らしてくれるもんだから、僕は月を見つけては「綺麗やなぁ…」なんて呟いて、ほうっとするのです。
ここには僕が見た綺麗な景色や感じたことなどを少しずつ書いていこうかな、と思っています。あ、景色といっても本物の風景とかじゃなくて、音楽や数学の話題になると思います。専門的になることもあるだろうし、間違ったことも多々書くだろうと思いますが、どうぞお許しください。間違いの指摘などは是非。
綺麗なものを見ようよ、なんてテーマですし、気張らず、ゆるーくふんわりいきたいと思います。
携帯からの閲覧はこちらをお勧めします。
http://moblogger.r-stone.net/blogs/216282329293331617
QRコード。
綺麗なものが好きで、そういったものばかりを追いかけた結果、生まれた世捨てごくつぶしが僕です。そんな極道な僕が見上げる夜空にも、ちゃんと月があって僕を照らしてくれるもんだから、僕は月を見つけては「綺麗やなぁ…」なんて呟いて、ほうっとするのです。
ここには僕が見た綺麗な景色や感じたことなどを少しずつ書いていこうかな、と思っています。あ、景色といっても本物の風景とかじゃなくて、音楽や数学の話題になると思います。専門的になることもあるだろうし、間違ったことも多々書くだろうと思いますが、どうぞお許しください。間違いの指摘などは是非。
綺麗なものを見ようよ、なんてテーマですし、気張らず、ゆるーくふんわりいきたいと思います。
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