「小学生には計算の意味を教えなければ教育は云々」などと語る大人はとても多いです。特に算数教育の最終到達点は文章題が解けることである、という考え方を持つ親は多く、子供はとても他に応用できないような鶴亀云々等を学習塾などで教えこまれ、中学入試に対応していきます。もちろん鶴亀算の教育が必要ないとはいいません。が、この着眼点は完全にずれています。
はっきりいいましょう。計算に意味なぞありません。演算とは「二つからなる数の組から一つの数への写像」として与えられます。つまり数から二つ取り出して、それに写像を作用させると一つの数が返ってくるといったもので、例えば「足し算」ならば2と3という数を与えると5が返ってくる、「掛け算」なら6が返ってくるとそういう話です。
写像というのは任意に定義することが可能なものです。そして上に述べた通り演算とは写像です(普通いくらか条件は付きますが)。たまたま「足し算」の場合は2と3を与えれば5が返ってきて、「掛け算」ならば6が返ってきただけの話なのです。これは定義です。定義に意味を求めるのはよくない。定義の意味というのは舞台裏としてこっそり存在することはあっても、表舞台に出て多くを語ってはならないのです。
計算の意味が云々、という人には是非問いたい。1+1=2を証明せよ、と。これを証明できないならば計算の意味なんて全部嘘です。ちなみにこれ、証明できません。1+1=0となる体系があるからです(扱っている体系が違うのでひっかけのようですが1+1=2を定義するというのはこれくらいプリミティブな話なのです)。
1+1といえばおはじきか何かを使って量から示すというのが初等教育のセオリーです。しかし、異なるねんどの塊を二つ持ってきて、くっつけて1+1=1だということもできるのです。それは屁理屈だ、それとこれとは話が違う…という。何故か?それは教育者は1+1=2となるような状況だけをうまくピックアップして他は目を瞑ってでも1+1=2と思いこませたいからなのです。それは当たり前のことです。何故なら紛れもなく1+1=2なのですから。
ここは前にも述べた現実と綺麗事のギャップに起因します。ねんどの例のように現実には1+1=2とは限らない。しかし、綺麗事では1+1=2である、という命題を正しいとしているわけです。このラベルは絶対に剥がれません。これが定義なのです。
では僕は算数では何が重要と考えているか。
まずは計算ができることです。その計算も意味を考えながらやってはダメです。計算とは写像、つまりは定義されたものなんですから。計算とは覚えるものなのです。これが冒頭に書いた『演算に関しては「教える」という概念はほとんど破綻しているとも言えるのではないか』の真意です。ほら、九九なんて単にごろ合わせでしょう。他の演算も同じように、なんでもいいから体で覚えることが重要なのです。
しかし確かにこれだけでは文章題は解けません。そこで次に重要になるのは文章を読む能力でしょうが、そこは国語教育に任せてしまいましょう。
算数で次に重要になる考え方は、既に今までの中に出てきています。それが
「…教育者は1+1=2となるような状況だけをうまくピックアップして他は目を瞑ってでも1+1=2と思いこませたい…」
というところ。そう、1+1=2となるような状況をうまくピックアップできるセンスを磨くことです。現実世界をモデル化、理想化することで綺麗事の世界に持ち込めるようになる、このセンスが重要なのです。これが文章題の真髄です。一通り教育を受けた大人側からだと理科っぽく見えると思うのですが、僕はむしろこれが算数らしさであって、理科の方が算数っぽいな、と思っています。
算数、特に四則演算と文章題については基本的には上に述べた通りです。もっと高学年になって習う難しめの文章題はパズルなのであって、躍起になってセオリーを習って解くべきものではありません。身につけるべきは思考のためのセンスであって、知識ではないのです。解くだけなら方程式を立てればどうにでもなるし、そのほうがよっぽど楽なのですから。
実は算数は、同じ問題を解くならば数学よりも高度なセンスや思考力を要求します。鶴亀云々は古来より伝わる有名なパズル問題の考え方であって、そのセオリーを身につけるものではなく、数的センスを磨くためのものなのです。ここを履き違えて「鶴亀こそが計算、ひいては算数の意味なのである」みたいなとんちんかんなことを言うのはちょっとなぁ、と普段から思っているのですが、なかなか発言の機会もなく、こういうところでポツンと呟くのです。
今日は代数学について書くつもりで始めたのに、結局話題が算数よりになってしまいました。代数学についてはまた今度。

