2008/12/25

論理学と数学

 数学と論理は旧い仲。密接に関係しており、やはり切っても切れない仲でしょう。
 が、一見似た者同士に見える数学と論理学でも、実は立ち位置ははっきりわかれているのです。今回は数学と論理学のカラーの違いについて書いてみましょう。

 論理学。論理学は主張に意味を求めません。ただ形式的な正しさを追い求めます。それに比べ、数学では意味を解釈することが重要になります。数学的意味合いのない対象は正しいとしても数学的価値はありません。逆にいくら数学的価値のある命題も論理学から見ればトートロジー(恒真式)です。
 どちらも同じような対象を扱っておきながら、重きをおいている部分が全然違いますね。数学と論理学の大きな差異です。

 桶屋の論理を見てみましょう。各「風が吹く⇒砂が舞い上がる」などの条件が真の時、「風が吹く⇒桶屋が儲かる」は真になる、と主張する、なるほどそれが論理学です。しかし、これは別に桶屋が儲かってよかったね、という話ではありません。風が吹いているのに、桶屋が儲かっていないならこれをつなぐどこかの条件が偽である、これを主張するのも論理学です。論理学は桶屋が儲かるかどうかはどうでもよく、三段論法がトートロジーであることを重要視します。
 これに対して、もしこれを数学が扱うならば、定められた公理と定義の中から、(論理を使って)風が吹いて桶屋が儲かるのか、儲からないのか、それとも風と桶屋は無関係なのか、を証明します。結果、その公理の上での風速と桶屋の財布の関係が明らかになります。したがって、それによって桶屋を羨むもの、興味をなくす者などが現れてもおかしなことではありません。特に酔狂な人はその証明過程や理論が美しいかどうかを議論します。

 どうでしょう、この雰囲気。おわかりいただけたでしょうか。あまりにも貧弱な例ではありましたが…。こういった感じの違いがあるのです。


 本当は“論理学と数学”なんていっちゃうと、「数学の中で論理がどんな役割を果たしていくのか」、「数学と論理はどう関わっているのか」みたいな話をするべきところなんですが、そのへんを説明するのは非常に難しい、というか僕自身あまりわかっていない、ので今回はこのへんでお茶を濁します。


 さてさて。数学と論理についてもう一つ。

 「数学は論理的思考を養う科目である」とは教育に携わる方はよくおっしゃるようです。
 なるほど。僕が見てきた中で、数学をやる人間が最低限の論理的思考力を身につけているのは事実です。De Morganの法則を理解できない人は、必ず途中で詰みます。
 しかし、はっきりいって高校数学まで「論理的思考を養う」ような論理を重んじた数学の教育が為されることはまずありません。もしやってたら三角函数を微分できるのに対偶がわからない学生が大量生産されるわけないでしょうから。
 ですから、この「数学は論理的思考を養う科目」というのはちょっと違う気がするのですね。論理的思考ができる人間が数学をやるのです。論理的思考を養うには論理パズルを解くのが一番よいと思います。
 それで、この手のパズルが得意か苦手かは、文系理系が関係ないようであるのがまた面白いところです。

2008/12/23

連続

 “連続”という言葉があります。函数、写像を相手に定義される概念で、理系の高校生が三年で習う内容です。実数函数fが定義域の内部の点xで連続である、とは「fのxにおける左極限と右極限がf(x)に一致する」で、fが連続函数である、とは「fが定義域上の点で連続である」だったと覚えています(定義域に境界が含まれるなどの細かい場合はどうしてたか忘れました)。一般に位相空間から位相空間への写像fが一点xで連続であることをnetの言葉で表記すると「xに収束する任意のnetの像がf(x)に収束する」になり、実数の位相の性質を考えると確かにこれらの概念は一致しています。
 この時確かにグラフがつながってみえるので、「連続函数とは連続な像を持つ函数である」というイメージを持ちがちです。

 しかし、それは違います。先ほど「連続な像」と書きましたが像とは集合です。連続は写像に対して定義される言葉で、「集合が連続である」と言葉は定義されていません。
 集合(位相空間)にはつながるという考え方に対応した概念として「連結」という性質が定義されています。例えば実数は通常の位相で連結ですが、有理数は連結にはなりません。有理数全体は無理数のところ、例えば√2のところで切れています。切れるというのは二つ以上の開集合に分割できるということです。これに対して逆に実数は「どこでぶったぎってもどちらか一方が開集合でないようなもの」と定めるのがDedekindの実数論であり、これはDedekindの切断と呼ばれ、実数の連続性の公理として最もポピュラーな位置にいます。「実数の連続性」という言葉は集合に“連続”という言葉が使われるかなりイレギュラーな例だと思うのですが、実際はこのように“連結性”を示すものであったともいえます(ちなみに実数の公理は連結性に着目したものだけではなく、他にも一様位相の完備化から責めるCantorの実数論もあります。Cauchy列の収束を述べるものです)。

 実は連続函数というのは、「つながっている」という概念とはかけはなれています。上の「fのxにおける左極限と右極限がf(x)に一致する」という言葉は絵を思い浮かべると確かに「つながっている」という感じがするのですが、それは実数がそもそも連結な空間だからであって、連結でない空間上の連続函数であれば、その一般にその像は連結ではありません。
 連続性の定義を素直に読み取れば、連続な写像とは「こっちでxに収束している列はあっちでもf(x)に収束している」という“収束先を保存する写像”となります。また収束という概念は位相構造を定めるものであるので、“位相構造を保存する写像”であるのです。

 とはいうものの、連結性と連続性はまったく関係のないものではなく、「連続写像は連結な集合をまた連結な集合に写す」という性質があります。よって実数上の区間上の連続函数なんかを相手にする場合は像が連結であるみたいな考え方が生きてくるし、歴史的にもこのような流れがあって、連続函数と名付けられたのでしょう。位相空間の定義が生まれ、連結でない位相空間を相手にしだしてから“連続”という言葉が浮いてきたのではないかなぁ、と考えます。

 数学の用語には、このように、歴史的な事情や概念の一般化によって、日常の意味とかけはなれた意味で使われるようになった言葉があります。この連続もその一つです。