“連続”という言葉があります。函数、写像を相手に定義される概念で、理系の高校生が三年で習う内容です。実数函数fが定義域の内部の点xで連続である、とは「fのxにおける左極限と右極限がf(x)に一致する」で、fが連続函数である、とは「fが定義域上の点で連続である」だったと覚えています(定義域に境界が含まれるなどの細かい場合はどうしてたか忘れました)。一般に位相空間から位相空間への写像fが一点xで連続であることをnetの言葉で表記すると「xに収束する任意のnetの像がf(x)に収束する」になり、実数の位相の性質を考えると確かにこれらの概念は一致しています。
この時確かにグラフがつながってみえるので、「連続函数とは連続な像を持つ函数である」というイメージを持ちがちです。
しかし、それは違います。先ほど「連続な像」と書きましたが像とは集合です。連続は写像に対して定義される言葉で、「集合が連続である」と言葉は定義されていません。
集合(位相空間)にはつながるという考え方に対応した概念として「連結」という性質が定義されています。例えば実数は通常の位相で連結ですが、有理数は連結にはなりません。有理数全体は無理数のところ、例えば√2のところで切れています。切れるというのは二つ以上の開集合に分割できるということです。これに対して逆に実数は「どこでぶったぎってもどちらか一方が開集合でないようなもの」と定めるのがDedekindの実数論であり、これはDedekindの切断と呼ばれ、実数の連続性の公理として最もポピュラーな位置にいます。「実数の連続性」という言葉は集合に“連続”という言葉が使われるかなりイレギュラーな例だと思うのですが、実際はこのように“連結性”を示すものであったともいえます(ちなみに実数の公理は連結性に着目したものだけではなく、他にも一様位相の完備化から責めるCantorの実数論もあります。Cauchy列の収束を述べるものです)。
実は連続函数というのは、「つながっている」という概念とはかけはなれています。上の「fのxにおける左極限と右極限がf(x)に一致する」という言葉は絵を思い浮かべると確かに「つながっている」という感じがするのですが、それは実数がそもそも連結な空間だからであって、連結でない空間上の連続函数であれば、その一般にその像は連結ではありません。
連続性の定義を素直に読み取れば、連続な写像とは「こっちでxに収束している列はあっちでもf(x)に収束している」という“収束先を保存する写像”となります。また収束という概念は位相構造を定めるものであるので、“位相構造を保存する写像”であるのです。
とはいうものの、連結性と連続性はまったく関係のないものではなく、「連続写像は連結な集合をまた連結な集合に写す」という性質があります。よって実数上の区間上の連続函数なんかを相手にする場合は像が連結であるみたいな考え方が生きてくるし、歴史的にもこのような流れがあって、連続函数と名付けられたのでしょう。位相空間の定義が生まれ、連結でない位相空間を相手にしだしてから“連続”という言葉が浮いてきたのではないかなぁ、と考えます。
数学の用語には、このように、歴史的な事情や概念の一般化によって、日常の意味とかけはなれた意味で使われるようになった言葉があります。この連続もその一つです。

0 件のコメント:
コメントを投稿