2009/06/15

群と圏

 代数と呼ばれるものには群論、環論、環上の加群の話、体論、線型代数学などがありますが、同じように二項演算の話でもそれぞれ故郷が違っていて、全く性質が異なります。環や体の話などは代数学っぽいと思うことが多いですが、群なんかは写像とか構造の話に近くて、もっとプリミティブなものだなぁと感じております。

 対象が一つの圏のことをモノイドと呼びますが、この射は単位的半群を為します。特に、逆射が存在するもの(同型射)だけを集めればそれは群になります。当然ですが、逆に、任意の単位的半群、群に対してこのような圏が存在します。群や半群を考えることと、様々な数学的構造を考えることはよく似ている、ということでしょう。
 ある圏の一つの対象cと射c→cを取り出して部分圏を作ると、全ての射が為す単位的半群は自己準同型(endomorphism)、End(c)だし、群は自己同型群(automorphism)、Aut(c)という重要なものになります。
 例えば体の圏で、素体のGalois拡大で得られる体を一つ持ってきて、その同型射だけを取り出すと、Galois群が見えてきたりするわけです(実際はGalois群を計算してから圏のグラフを書いたりするのでしょうが、圏は哲学的には静的な、絵のようなものに見えるのが面白くて、絵の中に計算結果が全て描かれているというのが、すごく気持ちいいのです。あくまで個人的には、ですが)。

 群は作用させてなんぼみたいな話を聞きますが、このように圏の話の中に自然とあらわれてくるのを見ると、うーんなるほどなぁ、と思います。

2009/01/17

限界と超越、選択公理

 もし動物が無限種類いたなら、人間にはノアの箱舟にのるつがいを選びきることは出来なかっただろう。しかし神ならばきっと、選ぶことができた……。


 人間の一つの限界は有限的であることです。人間は簡単に無限を扱うことはできません。なすことすべてに時間的制約(極端に長い時間にも短い時間にも)が科せられるからです。
 しかし、また、無限を全く理解できない、想像できないわけでもない。これは“無限”という言葉が存在している以上、明らかな事実です。
 以上から無限は「簡単に取り扱うことはできないが、なんとかすれば取り扱えるかもしれない」対象であるといえるわけです。重要なのは、語るべき、究めるべき価値のある対象とは、このようなものである、ということです。

 さて。古くは紀元前から、様々な哲人が無限を想像し、研究してきました。アキレスと亀のパラドックスについての考察などがその成果です。それがクリティカルに人間に関わり、体系的に取り扱う必要性が出てきたのは、物理学、微積分の発展の頃だと思います。
 微積分に関連して連続体の重要な例である実数について、その論理の整備が必要となりました。座標の概念が発達し、幾何学が空間を点の集合と捉えるようになったのも重要でしょう。そして19世紀頃、これらの論理的精緻化を決起に、数学はさらに論理学との結びつきを強くし、どんどんと集合そのものの概念を掘り下げていくことになりました。この時に争点になったのはやはり無限を如何に取り扱っていくか、ということだったようです。

 現在無限はどのような理論によって扱われているのでしょうか。
 今回は無限を取り扱っていくことによって生まれる人間の限界、そしてその限界を超えるために人間を超越した存在を仮定する、という少し宗教めいたようにも見える考え方について、触れていきたいと思います。

 そもそも無限とは如何な性質か。
 これは簡単に「有限でないこと」と定義されます。何とも素っ気無いですが、とりあえず無限とはこうだという明確な定義はあるということです。
 しかし、定義だけでは、対象がどのような挙動をするか、論理的にその存在を認めて矛盾しないのか、といった疑問に応えることは出来ません。それで、これを考える必要があるわけです。

 まず、第一に「~~が無限にある」という主張を認める必要があります。人間は有限の現象しか捉えることができない、という立場からこれを認めることはできません。これはジャンプアップですが、まぁまずは認めようではありませんか。
 では上に書いた「有限でない」もの。これは一体どのようなものなのか考えていきましょう。これに答えるには、もちろん「有限である」とはどういうことかを考えねばなりません。
 これは簡単に、「~個」という風に数えられることと考えられます。とはいえ「~個」といった時点で、実は「数」の理論が必要となるのですが、これに関しては日常的な感覚をそのまま利用できることが議論されている、という事実を書けば十分でしょう。
 これによって無限とは『「~個」と結論づけられないもの』だということができます。

 無限のプリミティブな性質、定義は上のように記述されましたが、「無限なるものの存在」となると話はまた別です。
 ここで、この例として自然数の集合を挙げましょう。自然数は実数論の下で、
・1は自然数
・xが自然数ならx+1も自然数
という性質を持っており、この性質を持つ最小の集合である、と定義されます。自然数の最大数としてmを仮定したらm < m+1と矛盾することから、自然数は有限でないことが導かれます。
 ここで、重要なことは、自然数は「あれとこれと、それからそれと…」という風に誰かが選んで持ってきて、定義したものではないということ。無限な集合はこのように論理によって規定されています。

 ここにさらにつっこみます。この論理にあやふやな部分がない点に注目しましょう。つまり自然数には任意の数xについてx+1という明確な数が定義されている。
 これに対して「確かに存在するんだろうけど、明確にそれとは定まっていない」といった性質を扱う。実は無限を相手にしている時、これが厄介になってきます。
 例えば八百屋でりんごとみかんを買おうと思った時。普通箱には沢山のりんごとみかんが入っています。あなたは一体どのような判断基準でこの中から一つのりんごと一つのみかんを選ぶか?例えばその中で一番大きいものを買う、というのは一つの答えですね。なるほど。これは明確な判断基準で、ちゃんと選ぶことができます。
 では、明確な判断基準を持たなければどうするか。順に一つずつランダムに取り出していくしかありません。ここです。人間にそれができるのは「りんごとみかん」のように有限種類(ここでは二種類)から一つずつ選ぶ時だけ。無限種類のものから一つずつ選んでいくことはできないのです。それが人間の有限性に基づく制限です。
 上では確かに実数から数をとって自然数の集合をつくりあげました。この時これができたのはxについてx+1という明確な判断基準があったからです。しかしランダムに一つずつ数をとって集合を作る……というのは確かにできない。でも、人間じゃなければ……人間を超越した存在ならできるかも知れない。だって感覚的にはできそうな気がするんだ……。それじゃあこれを事実として認めようじゃないか。

 数学にはこのように定める「選択公理」という公理が存在しています。

 これはZF公理という現在最もポピュラーな集合論の体系から、独立である(真としても偽としても矛盾が生じない)という事実が証明されています。現在の数学では真と認められていることがほとんどですが、それでも選択公理を使っているか使っていないかを明らかにしながら議論を進めることも結構あります。

 無限の中から選ばれた組合せが確かに存在している。しかしそれは人間には選べない。ではその組合せは一体誰が選び作り出したのか。それは人間には計り知れない。このような事情から選択公理を利用した議論や、それによって得られた集合は超越的だと言われたりします。
 超越的なんてともすればうさんくさくなりがちなこの言葉……数学や科学と相性がいいのか悪いのか、各人によって異なった印象を受けるかも知れませんね。